生活面だけでなく、精神的にも深い関わりをもって作曲家をサポートしたパトロンの功績を讃えつつ芸術作品の真髄に迫るシリーズコンサート。(全1回)
「ルドルス大公の功績を讃えて」
「音楽の玉手箱 Vol.5」
2004年11月23日 東京文化会館 小ホール
共演:荒井英治(ヴァイオリン)、長明康郎(チェロ)、三界秀実(クラリネット)
プログラム
L.v.ベートーヴェン:
ピアノソナタ 第26番 変ホ長調 作品81a《告別》
ピアノ三重奏曲 第7番 変ロ長調 作品97《大公》
ルドルフ大公:
クラリネットソナタ イ長調 作品2
『師弟愛と友情』
青木やよひ
(チラシにお寄せいただいたエッセイです)
ルドルフ大公というと、私には八年前に訪れたチェコの街オロモーツのことが思い出される。いまはさびれた地方都市だが、そこはかつてベートーヴェンが、当時オルミュッツとよばれていたこの地の大司教に就任したルドルフ大公のために、『ミサ・ソレムニス』を書いたことでしられてきた地名だった。
訪れたのが平日だったせいか、聖堂のすべての扉が閉ざされて内部はうす暗く、かつてのミサの盛儀は想像できなかった。だが、正面入口近くの柱に、ベートーヴェンの『ミサ』がここで初演された日付が刻まれた表示板を見つけた時は嬉しかった。急いでシャッターをきったあの時の写真が、いまもどこかにあるはずだ。
そんなわけで、ベートーヴェンのもっとも重要なパトロンであるルドルフ大公は、堂々とした威厳を身におびた大司教の姿で思いうかんでしまう。だが、ベートーヴェンが彼の音楽教師に迎えられたのは、1803年から4年の冬にかけてのことだから、彼はまだ15歳の少年だった。父である前皇帝のレオポルト二世は在位わずか2年で死去したので、当時はその長男であるフランツ二世の時代だった。つまり彼は、現皇帝の末弟というわけだった。
当時皇族の男子は軍務につくのが慣例だった中で、ルドルフ大公がその道を行かなかったのは、病弱のためだったといわれる。ベートーヴェンについて、作曲、ピアノそして音楽理論を学ぶ一方、17歳でオルミュッツの司教補佐になっている。彼の芸術的センスと穏和な性格がこうした分野に生かされたのだろうが、それはベートーヴェンにとっても幸いなことだった。
もともと人に教えるのが嫌いだった彼は、ツェルニーやリース、またエルトマン夫人などの弟子にも、教えたのはピアノ演奏だったから、大公は彼の唯一の作曲の弟子といってよい。しかも、短気で気まぐれなところのあるベートーヴェンが、時々レッスンをすっぽかしたりしながらも、二人の間にはこれといったトラブルもなく、二十年余も師弟関係が続いたというのは、よほど合性がよかったにちがいない。
この間ベートーヴェンが大公に献呈した作品は10曲を数えるが、これは数としても他のパトロンや友人をぬきん出ているだけでなく、ピアノ協奏曲『皇帝』をはじめ、いずれも名曲中の名曲であることでも注目される。大公自身すぐれた鑑賞力の持主で、傑作が自分に献呈されないと不機嫌になったとも言われるが、ベートーヴェンの方にも、作曲の師としてのプライドがあったのかもしれない。
また19世紀初頭に、ヨーロッパはナポレオン戦争の影響でスーパ・インフレに見舞われ、定職を持たないベートーヴェンは経済的危機を感じて、提供されたカッセルの宮廷楽長の地位を受けて都落ちしようと考えていた。その時エルデーディ夫人の奔走で、三人の大貴族の拠金によって年4000フローリンの年金を受ける契約が1809年に成立し、ウィーンに止まることができた。その三人の一人が、当時21歳のルドルフ大公だった。
しかし大公の功績は、こうした目に見えるものに止まらなかった。
ナポレオン没落後、とくに1819年以後のヨーロッパは、メッテルニヒ体制によるきびしい思想弾圧の下に置かれていた。自由な言論は封殺され、レストランや酒場にまでスパイが潜入して、人々の話題や行状をチェックしていた。そんな中でベートーヴェンは、大声で体制批判や貴族階級の腐敗をまくし立てていたのだった。彼が逮捕をまぬがれたのは、彼自身でかちえた不滅の名声と共に、ルドルフ大公の被保護者だったからである。
大公が残した音楽作品は、どこかベートーヴェン風だというが、それは師弟愛と友情のほのかな証しなのかもしれない。今回それが聞けるのは、なんとも嬉しいことだ。