ピアニストが見たベートーヴェンの素顔(8)

ベートーヴェンゆかりの地〔2.ボン〕

2002年4月号掲載(雑誌カンパネラ)

 ベートーヴェンを育んだ街、ボン。ベートーヴェンを生んだ街として、また戦後40年間旧西ドイツの首都だったことからその名が知られています。大国の首都だった割には小さな町で、現在の人口も30万人と主要都市として仲間に入れてもらえるかどうかといったところです。

 そのような認識から私たちは不用意に「田舎町ボンからハプスブルク家の帝都ウィーンへ出てきたベートーヴェン」などと決まり文句のように言ってしまいます。ところが18世紀のボンは後にも先にもないほどの文化的な活況を呈していたのです。無論ウィーンと比べればその規模は小さなものですが、ヨーロッパ各地の先進的な情報を得るには十分な街でした。

 当時のドイツはいくつもの侯国の集合体で、文化面では特に、領主個人の趣味が色濃く反映されそれぞれ特色をもっていました。ボンは神聖ローマ帝国の選挙権を有する選挙侯によって治められていた町です。ボンの文化的下地は17世紀前半の選挙侯フェルディナントの時代から始まります。宮廷ではイタリア音楽が鳴り響いていたということです。18世紀に入ると音楽を推奨し自身でも音楽を楽しむ選挙侯が続きます。ヨーゼフ・クレメンス侯(在位1689~1723)は作曲をたしなみ、クレメンス・アウグスト侯(在位1725~61)はヴィオラ・ダ・ガンバを演奏し、教会音楽に限らず宮廷楽団を置き、演劇を支援したということです。音楽好きのリーダーが続くというのは幸せなことです。次のマックス・フリードリヒ(在位1761~84)の時代にも国民劇場の設置がなされるなど文化が花開きました。この選挙侯の元では歌手であるベートーヴェンの祖父が一時期楽長に就任しました。ボン最後の選挙侯になったマックス・フランツ侯(在位1784~94)は時の皇帝ヨーゼフ二世の弟で、兄同様、啓蒙政策を敷きボンを文化的な一大拠点にしました。

 マックス・フランツ侯は1785年に大学をつくり、学問により国民に光を当てることに力を注ぎ、急進的な教授陣を招くことにも躊躇せずボンを啓蒙思想の中心地としました。マックス・フランツ侯がそんな政策を急激に進めている中ベートーヴェンは、多感な青年期を迎えるのです。若からし頃に受けた考え方や思想というのは、その人間の血肉となり人生の礎となるものです。1789年の夏学期にはベートーヴェンもこの新しい大学に入学しています。

 急進的な革命家シュナイダー教授から正義と自由についての考えを。フランス革命の理念と通ずるシラーなどを知ったベートーヴェン。揺るぐことのない共和主義的態度、教会的宗教を疑う態度を養い、さらにそこから派生してインドや東洋的考えを身につけるようになるのです。瞬間的に築かれたボンでのこの輝かしい時代に、ベートーヴェンが青年時代を過ごしたことはなんと運命的なことでしょう。単なる才能豊かな音楽家にとどまらない、深い思想を兼ね備えたベートーヴェンの基礎はボンで育まれたのです。

 ちなみにボンの繁栄は、ベートーヴェンがウィーンへと去った直後の1794年10月、フランス革命軍の進入によってあえない最後を遂げてしまいます。

 昨秋、私は初めてボンを訪れました。ちょうどベートーヴェン・フェスティバル期間中で、マルクトでは仮設ステージが設けられ「悲愴ソナタ」が演奏されていました。そのステージの正面にあるベートーヴェン像はリストの大きな介在により1845年に建てられたものです。

 マルクトからすぐのベートーヴェンの生家は現在博物館として公開されています。楽譜、手紙、楽器、所持品などは貴重なオリジナルで、どれも興味深いものばかり。

 彼が晩年愛用したフォルテピアノ、ブロードウッドとグラーフが、最後の家シュバルツシュパニエルハウスで置かれていたように向かい合わせに置いてありました。グラーフは特別の4本弦のもので1826年にベートーヴェンに貸与されたものです。ブロードウッドは、ベートーヴェンが所持していた1817年に贈られたものと同型のもがありました。

 ベートーヴェンを心から敬愛している人たちが関わっている様子が伝わってくる感動的なミュージアムでした。

写真1:マルクトのベートーヴェン像

写真2:ボン駅前にあったベートーヴェン音楽祭の広告塔