ベートーヴェンは作曲する際、スケッチから始まり、推敲を重ね、時に熟成期間をおきながら傑作を生み出してゆくので、その完成された作品を演奏するには、楽譜の内面を探るため、またベートーヴェンの思想を反映させようと、演奏する者は大いに研究しなければなりません。
ところが、それが行きすぎて、頭でっかちのアカデミックな演奏になってしまっては本末転倒。ベートーヴェンの魅力は消え失せてしまいます。音楽大学の試験の課題曲として、ベートーヴェンを勉強の一過程と捉えているピアニストもいれば、ピアノを弾かない人からも、クラシック音楽の権化のような存在のベートーヴェンに対し親しむことができない、と悲しむべき言葉を聞くこともあります。
ベートーヴェンの活躍していた時代と世紀を隔てた現在、当時の人よりも数倍の研究をしなければならないのはもちろんのことですが、我々もベートーヴェンの音楽に心から共感し楽しむために、今回は「即興演奏」をキーワードにしてベートーヴェンをひもといてみたいと思います。
ベートーヴェンは1792年にウィーン音楽界にデビューしてから耳疾が問題となる10年間程、新進気鋭のピアニストとして名を轟かせました。生前は、今残されている作品の何十倍何百倍もの音楽がベートーヴェンの手により即興的にピアノで奏でられ、その場で消えていたわけです。それらベートーヴェンの即興演奏は、聴く者に大きな衝撃を与えたようです。
当時の有名なピアニスト、ゲリネークはベートーヴェンとある日、ピアノ演奏で勝負をしました。その時のゲリネークの感想は、「あの若い奴には悪魔がついているんだ。あんな演奏なんて初めて聴いた。はじめに私が主題を出したんだが、モーツァルトでさえあんなに凄い即興演奏はできないだろうな。*」というものでした。
ベートーヴェンは、興がのるといつまでもピアノの前でファンタジックな即興演奏を繰り広げていたということです。残された変奏曲からは、そういった即興演奏の片鱗をうかがうことができます。
ベートーヴェンはジャズ的ノリを備えた人です。初期から最後のソナタまでそのような要素を各所にみることができます。ピアノ協奏曲第2番作品19。第3楽章では8分の6拍子の2拍目、4拍目に"sf"[スフォルツァンド:特に強めての意]を置いて、強拍を故意にずらし、つんのめるようなユニークなリズムで書かれています。中間部ト短調に転じるところは、ベースがピッチカートで伴奏しながら、ジャズピアニストの本領発揮、というような旋律がピアノで奏でられます。
こんな諧謔的なリズム動機の成功例として、さらに作品31-1、ト長調ソナタをあげることができます。右手だけ16分音符分飛び出したような、ずっこけているように聴こえる冒頭リズム動機は、第1楽章の主要動機として展開されてゆきます(譜例)。
最後のソナタ作品111、終楽章の第2、第3変奏は共にスイングそのものです。
このような例はどの曲にも散見され、ベートーヴェンはそのリズムの面白さ、ずれを"sf"で表現しています。
美しい楽章に突然現れる"sf"を無視する演奏もありますが、ベートーヴェンは念入りに、ぜひともという気持ちを込めて"sf"を記しているので、その気持ちを理解もせずに無視してしまうのは禁物です。「ヴァルトシュタイン・ソナタ」第2楽章の導入の音楽にでてくる"sf"は、ただ出せばいいという性質のものではありませんが、この作品をのっぺりと平坦で心地よいだけのものにしてしまっては魂が抜かれたも同然です。ジャズピアニストは顔をくねらせながら全身で音楽を表現していますが、ベートーヴェンの即興演奏にも共通点がみられるように思います。
音楽の重要な要素である「リズム」。クラシック音楽の演奏の現場では、意識してリズムのもつ躍動感を抑えることによって、独特の重厚感や燻し銀などと表現される表情をだすことが往々にして行われますが、演奏者の内面に、脈打つリズムをもって演奏する、というのは特にベートーヴェンの場合、とても重要なことで、これは後期の作品や緩徐楽章においても欠かすことはできません。
200年前に楽譜に記された音楽ですが、今日の演奏会場でも、「この場で生まれたばかり」と思えるような「ライブ感」を備えた「生きた演奏」こそがベートーヴェン演奏の魂なのです。
*ベートーヴェン 全ピアノ作品の正しい奏法 カール・チェルニー著 古荘隆保訳 全音楽譜出版社より
[譜例]ソナタ ト長調 作品31-1 第1楽章 (Henle版より)